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松本です。
今日、埼玉のとある街で、週に一度のチラシの投函のアルバイトがあった。 体力勝負のこの仕事は、時間以内に多く配らないとお仕事をもらえなくなるというもので、現場によるが、大体1500~2000枚だ。これは結構大変な量なのである。 それだけの量を配るのだから、配る方としては集合住宅を狙って枚数を稼ぐしかない。 しかし、ここが大変なところで、大抵が「投函を禁ずる」と書かれたり、中には警察を呼ぶとか、訴えるなんてところもある。 だが、中には管理人さんにお願いすれば、配らせてくれるところもある。私も初めは嫌だったが、最近は管理人さんさえいればお願いしてみることにしている。 今日も今日とて、ある建物にお願いしてみると、管理人のおじいさんが、黙って立ち上がる。そしてなぜか表に出てきた。とても危険な雰囲気である。 おじいさん「この仕事どれくらいやってるの?お願いするなら言葉使いや態度があるんだよ。建物に入ったら他人の敷地に入ってるんだから」 何やら色々聞いてきて、説教を始めた。とにかく礼儀がよければということを言っている。 私はしめたと思った。 ガッシャブルム一儒教徒な私は(孔子のドラマを見ただけ)、すっかり儒者モードで受け答えをしてみせた。 怒っている相手に対して、清閑に慎ましく応答し、かつ、静かに相手の眼を見ていると、向こうは逆に圧倒され、「なんか俺だけ熱くなってて、なんか、まぁ、こいつも反省してるみたいだし」的な感じになり、言葉がしどろもどろになり、終いには話の着地点を見失うということを、私は知っていた。 おじいさん「じゃあ、配っていいよ」 一変、すっかり機嫌をよくし、チラシを配ることができた。 配っていると、おじいさんがまた出てきて、何か話しかけてきた。な、なにぃ・・・。 取り留めない話かと思いきや、いきなり南妙法蓮華経について語りだし、宗教勧誘しだした。ななな、なにぃ・・・。 私は配りながら聞き、配り終えても帰してくれなかった。全く予想外の展開だ。 こうなると大変だ。私は大学で哲学を習っていた。となると、哲学を習う上でキリスト教は切っても切れない学問であり、仏教やその他宗教も然りであり、当然私も学んでおり、キリスト教と仏教をかじり、それらの自分なりの考えがある。そして冗談ぽく書いたが、今は儒教や昔の中国の思想家に興味があり、傾倒している。 つまり、宗教の話をされると、ものすんごく反論したくなるのだ。哲学をしているものはどうしようもないもので、とにかく自分の考えを言葉にしたがり、それを答えだと信じきっていて、他人におしつけたくなるのだ。学生や私のようなにわか者ならなおさらだ。 不幸なことにそのおじいさんは、私が反論したくなるワードを口にしてしまった。 もう・・・。耐えに耐えましたよ。ギリギリのところで。 大変疲れた10分間だった。 さて、お仕事が終わったら、私が今年1月に出演した、私の先生がいるODASSA企画の芝居を見に行った。先生の名誉のために先に断っておくが、今回も前回同様、先生はお仕事で今回の公演に携わっていない。 とにかく私は驚いた。私が見に行ったのは、間違いなくODAASA企画の公演であったはずなのだが、私は上演中チラシを確認したくてしたくてたまらなかった。 なぜなら、話の中心人物のほとんどを客演が固め、メンバー達は脇へ脇へといった始末。憤慨したいことは、私が個人的に伸びしろあり、これからの経験が大事になってくるぞ思っていた二人の役者がいる。ほとんど出番がないのだ。 おいおい。誰も文句は言わなかったのか? 私は彼らの成長を見たかった。全くの予想外の出来事であり、大いに疑問が生まれた公演だった。そして書かねばなるまい。誰も成長していなかったと。 私はこの日、先生に会えると思ったが仕事で来れなかったということで、すぐに電話でこのことを話した。先生が数日前稽古で初めて見た際に思ったことは、成長どころか、下手になってしまったということであり、嘆いていた。私にはこの先生がいた。ホチキスでは船渡さんがいたことも前に書いた。私には導いてくれる人がいた。しかしあの集団には、もはや導いてくれる人はおらず、それ以前に、聞く耳を持っていない者達だった。情報収集や勉強はほぼせず、自分が持ってる感性や知識だけを信じきってしまっている者達だ。客席から見て、まざまざとそれが分かった。私の表現で言うと、彼らこそ悲劇である。 チラシにコメディと書かれていた。そういえば案内メールにも、「笑いあり涙あり」と書いてあった。 奮起するために明日メンバー達に話すことだが、忘れた時のためにここに書いておく。どうせお互いの記事をチェックするのだから。 客が笑わないコメディほどやってて苦しいことも、恐ろしいものもない。 PR |
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